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ミハイル・アレクサンドロヴィチ(, 1878年12月4日(ユリウス暦11月22日) - 1918年6月12日)は、ロシア大公。ロシア皇帝アレクサンドル3世と皇后マリア・フョードロヴナの第4皇子。一般にはミハイル大公として知られる。 軍人。中将、侍従武官長。騎兵総監。国家評議会議員。 == 生涯 == 1897年、親衛騎砲隊で軍歴を始め、騎兵中隊を指揮する。1909年5月~1911年5月、第17軽騎兵チェルニゴフ連隊長、1912年1月から近衛重騎兵連隊長を務めた。 1902年、ザクセン=コーブルク=ゴータ公女ベアトリス(ヴィクトリア女王の孫娘)と恋に落ちた。英語で熱心に文通を行い、結婚の約束を交わしたが、ベアトリスの母がアレクサンドル3世の妹マリアであったことから、原則としていとこ同士の結婚を認めていない〔あくまで原則。皇帝の許可証が得られれば可能であった。ロシア帝国におけるいとこ同士の結婚の例としてセルゲイ・ラフマニノフとナターリヤ・サーチナの婚姻がある。〕ロシア正教会の教会法により、この結婚話は立ち消えとなった。 1912年に二度離婚歴のある平民(弁護士の娘)、()とウィーンで極秘で結婚した。しかしロシア帝室は貴賎結婚を禁じており、ナターリヤには大公妃の称号は与えられず、ミハイルは帝位継承権を放棄しなければならなかった。 二人の間には結婚前の1910年に一人息子であるが誕生していた。 第一次世界大戦勃発と共に軍務復帰が許され、1915年、北カフカーズ出身者から編成されたカフカーズ土着騎兵師団(別名「野生師団」、)長に任命された。同年1月14日~15日の戦闘に対して、四等聖ゲオルギー勲章を授与された。戦時中の武勲により、妻ナターリヤに「伯爵夫人」の称号が許された。1917年1月19日、騎兵総監に任命された。 1917年3月2日に兄の皇帝ニコライ2世の退位を受けて皇帝に推挙されたが、帝政打倒を強く訴える臨時政府の首相アレクサンドル・ケレンスキーらにより半ば強制的に退位させられた。これにより、300年続いたロマノフ朝は終焉を迎えた。 10月革命後、1918年3月7日にボリシェヴィキに捕えられ、6月12日早朝に監禁先のペルミで秘書のイギリス人ニコラス・ジョンソンと共に現地のチェーカーにより郊外に連れて行かれ、射殺された。遺体は服を全て脱がされ、硫酸をかけられた後、灰になるまで焼かれた。ボリシェヴィキは、「帝政に反感を抱く労働者の集団」による犯行と発表したが、殺害に参加したチェーカー関係者による発言が残されている。ミハイルの遺体の投棄場所は、1975年にイパチェフ館(ニコライ2世の処刑場所)の破壊と平行して線路が敷かれて現在に至る。 息子のゲオルギーは1931年にフランスのサンスで交通事故を起こし、20歳で死去した。ゲオルギーの死でアレクサンドル3世の男系子孫は絶えることになる。ミハイルの死から91年経った2009年6月8日、ロシア当局はミハイルとジョンソンの名誉回復を発表した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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